本書を読むときの視点

批評家として(批評とは何か)】
観賞者として(批評と作品の関係はどういうものか)】
芸術家として(批評されるとはどういうことか)】

書籍名『批評について: 芸術批評の哲学』
著者ノエル・キャロル 翻訳森功次
出版社 勁草書房, 2017 ページ数296 ページ

ノエル・キャロル(Noël Carroll)(1947年12月25日~)

(訳者あとがきより抜粋)

…ノエル・キャロルは分析哲学という学問を牽引してきた哲学者である。現在はニューヨーク市立大学大学院センター(CUNY Graduate Center)の卓越教授を務めている。元アメリカ美学会の会長。(…)それまで曖昧に語られていた領域にキャロルが乗り込んでいった結果、議論が整理され、そこから生産的な論争が始まる……こういうケースが数多く見られる。

The Graduate Center, CUNY | Philosophy Department | Prof. Noel Carroll interview

何が曖昧に語られてきたいのか?

【翻訳者】(researchmapより)

森功次(もり・のりひで)美学者



大妻女子大学国際センター専任講師(文学博士/東京大学)現在は「芸術評価のための現代的価値論の構築:アートワールドの多元化をふまえて」という研究課題に取り組んでいます。

分析美学

【分析哲学とは】(森功次氏、SYNODOSより)

分析哲学とは、20世紀初頭に生まれた哲学の一動向である。初期は主に概念や言語使用の分析を行う学問として発展してきたが、今では認識論科学哲学などと結びつきつつ、主題、手法ともに多様化している。定義や論証の厳密性を重視する傾向が強い。最近は、「初期の分析哲学の伝統を引き継ぎつつ行われている現代の哲学」という広い意味で用いられることが多い。分析美学もこの伝統のもとに発展している一分野だといえる。

【分析美学とは】(森功次氏、SYNODOSより)

分析美学も多様化しており、「どこからどこまでが分析美学なのですか」という問いに明確な答えを出すのは難しい。せいぜいできるのは、論述のスタイルや、そこで依拠されている学問的価値観所属する学会や発表される媒体などの点から、これはより分析美学「的」な論考だ、という特徴を指摘することぐらいだろう。

【美学とは】(森功次氏、SYNODOSより)

美学とは、〈美しいもの〉や〈面白いもの〉などを見てとるときに働く「感性」について考える学問である。18世紀以降の西洋社会においては、芸術こそが感性の働きが典型的に現れる場だと考えられたこともあって、18世紀以降の「美学」とは「芸術哲学」とほぼ同義でもあった。

今道友信「人文系学問における美学の位置」

サブトピック

歴史上の批評家たち

ドゥニ・ディドロ
(Denis Diderot、1713年10月5日 - 1784年7月31日)

フランスの哲学者、美術批評家、作家。主に美学、芸術の研究で知られる。

シャルル=ピエール・ボードレール
(1821年4月9日 - 1867年8月31日)

フランスの詩人、評論家である。

クレメント・グリーンバーグ
(1909年1月16日 - 1994年5月7日)

アメリカ合衆国の美術評論家。

アーサー・コールマン・ダントー
(1924年1月1日 - 2013年10月25日)

アメリカ合衆国の美術評論家・哲学者。
長年『The Nation』誌で影響力のある美術評論を連載していたことで知られる。

ボリス・エフィモヴィチ・グロイス
(1947年3月19日 - )

美術評論家 、メディア理論家、哲学者。

(おまけ)

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング
(1775年1月27日 - 1854年8月20日)

ドイツの哲学者である。
カント、フィヒテ、ヘーゲルなどとともにドイツ観念論を代表する哲学者のひとり。

藤枝 晃雄
(1936年9月20日 -2018年4月26日)

美術評論家、藤枝晃雄氏死去 

著書に「現代美術の展開」「現代芸術の不満」など
 藤枝 晃雄氏(ふじえだ・てるお=美術評論家、武蔵野美術大名誉教授、本名照容=てるかた)26日午前7時15分、誤えん性肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去、81歳。福井県出身。葬儀・告別式は親族のみで行う。喪主は妻で画家の松本陽子(まつもと・ようこ)さん。


 米国留学などを経て60年代から評論活動を展開。ジャクソン・ポロックら米国の現代美術、抽象表現主義の紹介に尽力した。武蔵野美術大教授などを歴任。著書に「現代美術の展開」「現代芸術の不満」など。

第一章 価値づけとしての批評

(第1章1)【価値づけ】

P.18
批評」という名に値する言語活動を他の言語活動から区別するのは、価値づけだ、というのが本書の主張である。

(第1章2)【価値づけからの撤退】

P.30
ダントー(…)からしてみれば、作品の価値づけ彼の仕事ではない。(…)批評家の仕事は、価値づけではなく説明なのだ。批評家は、その作品がどのように機能しているのかを説明するのである。

(第1章3)【批評の本性と機能】

P.62
もしある言説が、あからさまな価値であれ暗黙の価値であれ、ともかく価値づけを欠いているならば、その言説は批評としての資格を失う

第二章 批評の対象(ひとつを除く)

(第2章1)【批評の対象】

P.70

批評の対象は、最終的に芸術作品に結実する、特定の行為のプロセスなのだ。

(第2章2)【成功価値VS受容価値】

P.84

たとえば、ピカソの≪アヴィニョンの娘たち≫のような美術史上の驚くべき独創性を発揮している作品の完全な贋作があると考えてみよう。(…)この二枚の作品は経験上まったく同じものであるだろう。完全な贋作と見比べたとき、ピカソの作品の独創性は、検出可能な違いを何ももたらしてはくれない。どちらの作品も完全に同じ受容体験を支えるのだから、両作品は受容価値の面で同等である。だがこうした点が示しているのはただ、需要価値だけでわたしたちの批評実践のすべてを説明することはできない、ということでしかない。

(第2章3)

P.85

受容価値からのアプローチでは取りこぼされてしまうような価値は、独創性以外にもある。たとえば歴史的インパクト/または歴史的影響は、そのような価値である。アンディ・ウォーホルの≪ブリロ・ボックス≫は、抽象表現主義のようなそれまで王道であった特定の芸術動向の終焉を促すと共に、1970年代のポスト・モダン芸術への扉を、そしてその後に続く、歴史終焉以降の多元主義への扉を開いた。≪ブリロ・ボックス≫の贋作者に、これと同じような称賛を送ることはできない。(…)だが、経験の面では、偽造された≪ブリロ・ボックス≫は、ウォーホルの≪ブリロ・ボックス≫と寸分違わぬ刺激を与えてくれるのである。

(第2章4)

P.86~受容価値説が抱える問題はもうひとつある。(…)受容価値にしたがうと、批評家は観賞者にその作品から肯定的経験を得るための必要な手段を提供すべきだ、ということになる。

(第2章5)

P.90
芸術家は、あるはっきり規定された経験(もしくは一定の幅で定められた経験)を引き起こすように、もしくは少なくともその種の経験を支えるように作品を設計している。

(第2章6)

P.91
芸術家が、その芸術的構造をつうじて生じさせるよう意図していた経験をうまく生じさせるのに成功しているのならば、まさにその種の経験を生じさせうるという力は、その作品の達成の一部をなす。

(第2章8)

P.94
アガサ・クリスティーミステリー小説を評価するためには、それが伝統的な探偵小説の作品であり、心理学の綿密な性格研究ではないことを理解していなければならない。つまり彼女がどのフィールドでプレイしようとしていたのかを知ることで……批評家は一連の予測・期待をすることになるし(…)ひとつの重要なゴールポストを理解することになるのである。

(第2章9)

P.106
芸術作品は、スタイル、芸術運動、芸術傾向、作品群、伝統などのカテゴリーに属すものとして登場してくるのであって、当の作品を適切なカテゴリーにおくことで、その芸術家の意図ははっきり理解されうるのだ。

(第2章10)【手短なまとめ】

P.114
芸術作品の中の価値あるものとは、すなわち、芸術家の達成である。この種の価値は、成功価値と呼ばれる。(…)受容価値を軸にすえるアプローチは、独創性のような、芸術的価値の源として広く認められている要素を芸術的価値として説明できない

第三章 批評の諸部分

(第3章1)【批評の諸部分】(批評はいかなる作業によって成り立っているのか)

P.120
批評においては(価値づけの他に)これらの六つの作業の少なくともひとつが行われていなければならない(…)批評家は、記述、文脈づけ、分類などの作業のうち、ひとつもしくは複数の作業をもとにして、(自分が最終的に提出する)評価を支えるのだ。

(第3章2)

P.120
必要なのは、批評が理由によって裏付けされている、ということである……そして、この理由は、記述、文脈づけ、分類、解明、解釈、分析のいずれか、もしくはそれらの組み合わせによって提出される。

(第3章3)【記述】

P.122
批評家は、自分がその作品の何を文脈づけ・解明・解釈・分析しようとしているのかを特定しなければならないのであって、それには記述の作業が必須だろう。(…)また、作品を分類、もしくはカテゴリー分けするさい、そこで提案するカテゴリー分類を裏付けるような作品の特徴を記述する必要があるだろう。

(第3章4)【分類】

P.131
芸術作品は種々のカテゴリーに属するものとして現れてくる。(…)だがこれらの芸術形式の下にも、さらに各種の(下位)カテゴリーがある……たとえば、ジャンル、芸術運動、様式、作品群などだ。評価対象となる芸術作品を適切なカテゴリーに位置づけることは、非常の根本的な任務である。作品を特定の種に位置づけることは、同時に、その作品にはいかなるタイプの批評が適しているかを示すことになるのだ。

(第3章5)

P.134
前衛芸術はカテゴリーづけに徹底的に反抗しているわけではない。たしかに、見た目だけでどのカテゴリーに属するのかを判別できないような視覚芸術作品はよくある。だが、分類の助けとして文脈的・制度的手がかりを用いてはならない、とすべき理由はどこにもない。

(第3章6)

P.134
すべての芸術作品は伝統を破壊し芸術形式を再発明せよ〉という(…)命題は、いかに勇ましく、心かきたてる響きをもっていたとしても、じっさいに欲張りな夢想でしかない。伝統からのつながりを完全に断ち切った作品を作れる者など誰もいないし、そのような作品は誰からも理解されないだろう

(第3章7)

P.136
批評家とは、自分の専門領域にある芸術のカテゴリーについてのエキスパートなのだ。(…)作品を見て批評家は、その作品がまさにその種の作品としてどのていどの成功を収めているかを見定めるために、作品を記述、解釈、分析する。(…)批評家が失敗するとしたら、(…)カテゴリーミステイクなのだ。

(第3章8)【文脈づけ】

P.150
批評(家)(…)は文脈……芸術史的文脈、制度的文脈、そしてさらに広い文脈としての社会的文脈……のうちに作品を位置づけることで、その作家は自分で引きを受けた課題にいかにして対応したのか、という観点から作品が記述されるようになる。(…)それら一連の作業は、価値づけのための根拠となる。

(第3章9)

P.155
グリーンバーグは特定の絵画をある歴史的文脈に、すなわちモダニズムという文脈におくことで、観賞者を助けている。彼は(…)はそのとき、この絵画の各要素が当時の課題にどう答えているのかを記述し、そうすることで、この絵画への彼自身の評価査定を補強しているのだ。

(第3章10)【解明と解釈】

P.157
解釈は、作品の主題がいかにして具現化されているのかを……意味の次元を介して……明らかにすることで、その作品の主題が何なのかを伝えてくれるだろう。解明もまた作品の内容に焦点を合わせる作業なのだが、その焦点はふつう、その内容を構成している慣習的記号が何を記号化しているのか、にむけられるのである。

(第3章11)

P.158
解明が焦点を当てるのは、作品内の、おおむね意味論的、図像的、および/もしくは肖像的な記号の表示関係で(…)作品の構成要素となっている記号のうち、文字どおりの表示関係によって、もしくは固定化した連想関係によって表示しているのはどれか、である。

(第3章12)

P.166
解釈は、作品全体の価値づけを根拠づけるにあたって〈作品の物語的、演劇的、象徴的要素包括的に結びつける意味や意義〉を見出すことでその作品の統一性を明らかにする。これは、作品の主要なテーマ、テーゼ、コンセプトが、芸術作品を統合的に理解するための道具として、最もよく用いられるもののひとつだからだ。

(第3章13)

P.168
解釈と解明はときに区別できないように見える(…)たとえば、抱きあう恋人たちのショットの後に、岸壁に向かって繰り返し打ち付ける波のショットが続いたとしよう。映画研究者にとっては、それが恋人たちの性行為の象徴であることは疑いようのないことである。(…)それはせいぜい解明の作業にしかならないだろう。だが、完全にうぶな映画観賞者にこの場面の表現を説明する場合、それは(…)一種の解釈作業になるかもしれない。

(第3章14)【分析】

P.176
分析という作業は、(…)芸術作品がいかに機能しているか、を説明する作業である。分析の任務は、(…)要点・目的が作品の構成部分によっていかにして実現しているのか、を説明することである。

(第3章15)

P.183
おおむね分析は全体的な方向へと向かう。つまり、作品やその構成要素の中にある、内容や思考の統一体(ユニティ)を確立しようとするのである。何かを理解するためには一貫性が必要だし、また、統一性、高度に組織化されていること、そして豊穣さは、多様性を欠くことで作品が単調にならないかぎり、一般に芸術作品の長所となるものだからだ。

(第3章16)

P.185
アンダルシアの犬』のような前衛映画ですらも、〈シュルレアリスム的な目的のための出来事のちぐはぐな連なりを一貫して選択する〉。一貫性のない一連の出来事を再現することで、精神の非一貫性を肯定するという試みは、矛盾を感じさせるものではあるが、その目的は一貫している。

「アンダルシアの犬」Un Chien Andalou(1929仏)

(第3章17)【芸術家の意図ふたたび:ラウンド2 意図と解釈】

P.187
解釈を、言語的意味をモデルに理解しようとする傾向が出てくる(…)だが、そのよう(反意図主義的)なやり方をあらゆる芸術に当てはめるのは無理だ。ほとんどの芸術には、言語にあるような高度に構築された意味習慣がないからである。

第四章 価値づけ(問題と展望)

(第4章1)【価値づけ】

P.211
本書で提案してきた批評観とは、批評とは本質的に、理由にもとづいた価値づけの営みなのだ、というものである。ある芸術作品についての批評的価値は、記述・分類・文脈づけ・解明・解釈・分析といった作業のうちのいくつか、もしくはそのすべてによって支えられる。

(第4章2)

P.231
芸術のカテゴリーやその目的を経由することで、〈当の芸術形式、ジャンルなどにおいて何が成功とみなされているのか〉についての一般原理にたどり着くことができる……批評家の側からしてみれば、自身の価値づけを根拠づけるには、その〔芸術カテゴリーや芸術ジャンルに範囲を限定した〕ていどの原理で十分なのだ。

(第4章3)

P.234
芸術作品が属するカテゴリーには、ある種の目的や期待がたくさん備わっている(…)その目的・期待を満足させるような特徴は、価値生成要因とみなされる(…)

よって、もし批評家が〈ある芸術作品はしかじかのカテゴリーに属する〉と、そしてさらには、〈そのカテゴリーには、特定の特徴をもつことで最も満足させられるような目的が備わっている〉と、客観的に……つまり間主観的に検証できるような仕方で……立証できるのであれば、その批評家は、客観的評決を下すのに必要な論理的・概念的手段を得ることにもなるだろう。

(第4章4)

P.239
批評的価値づけに関わる分類にとって、その分類を支える理由……客観的理由……は少なくとも三種類ある

構造に関する理由
歴史的文脈に関する理由
意図に関する理由

(第4章5)

P.267
批評家が自分の専門性を発揮できる領域として選んだカテゴリーの範囲内で仕事をするとき、その批評は、狭い意味での芸術批評である。つまりそれは、その批評家の専門としている(諸)芸術形式の、伝統、歴史、理論、スタイル、ジャンル、作品群、諸カテゴリーに関する知識にもとづいた批評なのである。そしてそこで活用される知識とは、芸術関連の……歴史的、理論的、批評的、実践的な専門性なのだ。

他方、異なる芸術カテゴリーの文化的重要性を比較衡量するというのは、狭い意味での芸術批評の仕事ではない。おそらくそれは、文化批評と呼ばれるべき仕事だろう。

Norma Desmond - I am a Star

はじめに

P.1
批評とは本質的に理由にもとづいた価値づけである、という仮説。これこそが本書を組織しているアイデアである……。

p1
・本書が行うのは、批評の哲学である。この分野はかつては「メタ批評」とも呼ばれていたが、現在は芸術批評を探求対象とする、芸術哲学(もしくは美学)の中の一分野となっている。

・批評の哲学の最盛期は1950年代から1960年代であった。

・この時期に批評の哲学が花開いた理由のひとつには、芸術を定義するというプロジェクトに対して懐疑的な空気が蔓延していた。

p2
・今こそ批評の哲学を復活させるべきだと思う。というのも世界史上、今ほど多くの芸術批評が生み出され、消費されている時代はないからだ。

・教養ある芸術消費者は、各種メディアの全域で雪崩のように立て続けに提供されている芸術作品にうまく対処すべく、批評家を頼りにしている。

p6
・わたしの関心はどこにあるかというと、解釈のれっきした標本とみなされるべきすべてのものはどのような本性をもっているのか、またそこにはどのような制約が課されているのか、たとえば、その解釈への制約は理論からどのような指令を受けているのか、といったところにある。

・こんにち提出されている批評理論の多くは、主に解釈の理論である。一方、わたしは、価値づけこそが批評の本質だと、それもとりわけ、芸術のカテゴリーやジャンルに照らし合わせながらなされる価値づけこそが、批評の本質だと主張する。

・価値づけさえ含まれていれば、解釈なしの批評も可能なのだ。

p7
わたしは、芸術的な価値づけと呼ばれうるもの―すなわち、芸術のカテゴリーと照らし合わせての価値づけ―こそが批評の根本であると、主張するのだ。

p8
歴史を見てみれば、批評とは一般に価値づけと結びついていたもの

・現代の解釈理論では一般に、目標とする(作品の)意味にたどりつくための王道的手法として、個別人称の伴わないプロセスや意図されないプロセスのはたらき―たとえば無意識や、生産力や、言語作用そのもの、など―に焦点が当たられている。他方わたしは、芸術作品とは価値の創造者たる芸術家が意図的につくりだすものだ、という点を強調する。

・批評理論家の多くや批評の現場いにいるその追随者たちは、人間以後の、さらには反人間主義的とすら言えるような批評(すなわち行為主体としての人に執着しない批評)に取り組んでいるが、それと比べると、わたしの批評についての考え方は、意図主義の立場から理解された芸術家の達成を批評の最重要目標とするという点で、断固として人間的、人間主義的である。

人新世に対する批判?
ポストヒューマン批判?

p9
・特定の芸術作品をその作品固有の条件で評価することを推奨する。

p12
・芸術作品の価値は、作家がその作品によって何を達成したのか、に結びついている。

・(わたしへの疑問で、)批評は客観的ではありえない、という批判に関わるものである。この批判への応答として、わたしは、ある種の批評は客観的になりうるというとを論証し、そして、その客観性を支えるためにはどのような批評的営みがかかわっているのかという観点から、その客観性の根拠について説明したい。

訳者あとがき

P.271
批評の哲学という分野はあまりきちんと論じられていなかった。それが本書の翻訳を決意した理由のひとつである。もうひとつの理由は、本書が提示する批評観が、日本ではあまり馴染みのないものだと思われたからだ。

p272
批評の哲学を復活させようと目論見の下、書かれたのが本書である。

・批評とは、理由にもとづいた価値づけであり、記述、分類、文脈付け、解明、解釈、分析といった作業は、その価値づけという最終目的を支えるために行われている。

批評とはなにか?

本書の中でキャロルは、「批評」を他の言語活動と区別するものが、≪理由にもとづいた価値づけ≫であると主張しており、そこから考えると、「批評とは理由にもとづいた価値づけを含む、作品について書かれた言語活動」ということ。そして「観賞者が、作品の中に見出しづらい価値を発見できるように助けてくれること」と言っています。つまり、「批評家は作品の価値を示してくれる」存在だということです。

キャロルは、18世紀ごろに航海術とか医術などの≪術≫から分離した、文学、演劇、彫刻、ダンス、音楽、建築(まれに庭園術)と現在、芸術とみなされている、キャロル曰く「近代の芸術システム」を扱うとしています。

キャロルは創作があるところには批評があると言っているので、当然古代ギリシャにも中世にも批評があるということです。

キャロルは作品の需要価値(観賞した者の主観的な価値、つまり経験する主体のうちにあるもの)を否定しているので、ヒュームとカントはダントーと並ぶ仮想敵です。

批評眼の大切さ

-悪意なき欺瞞-
石川純治

評論・批評・批評眼 評論(critique)とは広辞苑には「物事の価値・善悪・優劣などを批評し論ずること」とある。批評は「物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論ずること」、さらに批評眼は「批評する眼、物事を批評しうるだけの眼識」とある。何事においても、この眼識が大切である。平たく言えば「目利き」ということだ。だが、今日、この批評眼という意識が乏しい。世に巻かれるまま、世論や風潮に流されるままでは、こうした意識は出てこない。

批評(または批判)を意味するクリティークcritiqueの語源は,ギリシア語のクリノkrinō(判断する,裁く)に由来する。

批評の位置

いずれにせよ価値の判断は究極において個人的・相対的であり、よりよきものへの努力が払われているか、よりよきものと比較してどこが足りないか、そしてそのよりよきものとは何かを不断に模索するという高度の精神的葛藤(かっとう)を通して行われる。為政者も一般大衆も、作家も批評家も読者も、つねに政治的・倫理的・宗教的なセクト主義に偏し、人間本来の共通基盤から乖離(かいり)する危険にさらされている。その自浄作用としての批評は、伝統に流されず、時流におもねらず、固定観念や常識を超越したところに位置しなければならない。過去のあらゆる意味での優れた批評の実行者は、多かれ少なかれアウトサイダー(社会からの孤立者)的な要素をもち、例外なく優れたモラリスト(人間の原点を見据える哲学者)であった。

批評とは自立した個人によって営まれる行為=近代的主体性

真の批評の根底にあるものは批評意識ないしは批評精神であり、この意味での批評は批評家の専有物ではない。豊かな文化が築き上げられるためには、時代と場所を問わず公衆の健全な批評意識が不可欠であり、古代においてアテネの市民が実践したところのものであった。批評精神の鈍化・喪失が文明の滅亡につながり、新たな批評精神が新文明の勃興(ぼっこう)につながった例はあまりにも多い。また批評は、形を変えて、人間の精神活動のあらゆる局面に伏在する。

阿部靖子
『美術学習におけるクリティカルな思考と判断に関する研究』


批評活動は、単なる知識・理解に留まらず、自分の感じ・見方・考え方を常に自己批判しながら獲得していく過程を考えられ、鑑賞活動のなかでさらに行なわれていかなければならない学習だと思われる。そして同時に、鑑賞活動の中に組み込まれる批評学習ばかりではなく、表現活動を含む美術学習全体にその考え方を発展させたクリティカルな思考と判断を育てる学習が、新たに想定される

小学校児童指導要録及び中学校生徒指導要録における評価の観点

「関心、意欲、態度」
「思考・判断」
「技能・表現(または技能)」
「知識・理解」

アイスナーの3つの諸相「表現的」「批評的」「文化的」

「私たちが芸術作品とよぶ諸形態を子どもが楽しみ、経験する能力を開発することができる。この活動の領域は批評的領域と呼ばれている」

川田都樹子「美術と批評」『芸術学ハンドブック』

・一般に美術批評は,美術作品の価値を判断し,それをとおして人間の創造活動の本質を明らかにしようとする営み

・芸術作品に対する
美的価値判断や美の理論の追求と考えれば,古来以来,美の理論家や美術史家は多かれ少なかれすべて美術批評家であったと考えられる=美術史の中の批判的鑑賞

・今日的意味での美術批評が誕生したのは,
18 世紀の中頃,フランスの美術アカデミーの会員を中心にルーヴル宮の一室で始まった展覧会,『サロン』展についてのディドロの美術批評においてである

・この時期に頻繁に開催されるようになった
個展公募展,また新聞雑誌マス・メディアの飛躍的な発展が,美術批評の世界とその役割を一挙に拡大

・今や美術批評は,その
独自の判断で,芸術家達の歴史的位置づけを行ない,また一人の芸術家の創造的発展の中で重要と見られる要素を拾い上げ,マンネリズムや退行を指摘することで,おのずから次に来るべき展開を示唆し,それによって積極的に芸術を方向づけようとしている

このように美術批評が行なう作品にかかわる一連の行為(例えば,発端―詩―科学―領域化,描写―解釈―評価)は,美術独自の思考・判断の方法であり,それは子どもたちにとって他教科では獲得できないものの見方,考え方,判断を与えるものとして意味を持つ。そして,まさに現在の急速に変化する社会,美術,芸術,環境の中で生き,成長している子どもたちにとって,同時代美術(コンテンポラリーアート)についてのクリティカルな思考方法としての「批評」活動が求められている。人類が未だ経験したことのない情報社会の中で,多様なメディアやコミュニケーションによる表現を,我々は自分の感覚を通してクリティカルな思考過程と判断を繰り返しながら,受け入れ,育てていかなければならない。

分析美学について

(参考)
・SYNODOS/分析美学ってどういう学問なんですか――日本の若手美学者からの現状報告 森功次 / 美学者
・ステッカー『分析美学入門』勁草書房

分析哲学とは

20世紀初頭に生まれた哲学の一動向
・初期は主に概念や言語使用の分析を行う学問として発展
・今では認識論や科学哲学などと結びつきつつ、主題、手法ともに多様化
定義や論証の厳密性を重視する傾向が強い

美学とは

・〈美しいもの〉や〈面白いもの〉などを見てとるときに働く「感性」
・18世紀の哲学者バウムガルテンがこの分野を確立させた
・18世紀以降の西洋社会においては、芸術こそが感性の働きが典型的に現れる場だと考えられた
・18世紀以降の「美学」とは「芸術哲学」とほぼ同義

芸術哲学とは、

・美学とくらべ、より幅ひろい問題をあつかう(形而上学、認識論、心の哲学、認知科学、言語哲学、シンボル理論)
・「芸術的価値(artistic value)」は、〔美的価値だけでなく、〕さまざまな価値から構成されるものと考える。
・芸術の鑑賞の仕方、芸術を理解する方法、芸術作品の存在論的身分などすべて多元的にとらえる
・価値・理解・鑑賞についていろいろな考え方が可能である
文脈主義(contextualism)という立場こそが、さまざまな問題を解決するにあたってほかの立場よりも優れている。

分析美学とは

「分析美学は美学理論や芸術批評の言語分析を仕事とするもので、いわば「メタ美学」「メタ批評」とでもいわれるにふさわしく、それ自身は、芸術や美意識についての新しい知識をもたらしたり、それを拡げてくれるいわゆる美学ではないし、また芸術運動の実践理論である批評でもない。むしろ分析美学は、それらにおける言語使用の形式的交通整理をおこなう、それ自身は経験的になんら実質的内容をもたない論理的手続きのマニュアルにすぎないものである。しかし経験科学としての美学や芸術批評運動が真に効果的な力を発揮するためには、このような高い立場からする理論そのものへの方法論的反省がつよく要請されるのである。」
(川野洋「分析美学」『講座美学新思潮、第3巻、芸術記号論』竹内敏雄監修、美術出版社、126頁)

・64年のダントーの論文「アートワールド
・グッドマンは芸術作品を記号論的に説明
・サールらは言語哲学の議論を援用して虚構的な言説についての議論
・78年のウォルトンのフィクション観賞中の観賞者の反応はどのように説明されるべきか
・80年代以降は、ウォルハイム以降、音楽の存在論や画像知覚環境美学の議論

(英語圏でも、美術史・美術批評よりのロザリンド・クラウスとか、マイケル・フリードとかは「分析美学」には入りません)

・「分析哲学の伝統を受け継ぎつつ主に英語圏で行われている美学
・最近では分析美学(analytical aesthetics)という語はあまり用いられなくなっている
・「分析的哲学」「大陸系哲学」という区分けが近年見直される
・最近の英語圏の哲学は、認知科学や現象学など他分野の知見を多数取り入れつつ発展しており、もはや概念や言語の分析だけをやっているわけではない
・対立軸として「大陸系美学」という呼称を用いるのも、厳密には正しくない。フランスやドイツでも分析的なスタイルで仕事をしている。
・感性の働きや芸術については、たんに語るだけでなく、議論することができるという姿勢は、分析系の哲学を特徴づける重要な要素
論述のスタイル用語や論証形式をできるだけ明確化
・そこで依拠されている学問的価値観(論争をつうじて協働的により良い理論構築を目指す
・所属する学会や発表される媒体(分析美学の主戦場はThe Journal of Aesthetics and Art CriticismやBritish Journal of Aestheticsといった学会誌だ)

分析美学のスタイル

多くの論争は著作単位ではなく論文単位で進められる。ある主張が出ると、すぐさま反論論文が書かれ、また再応答が出る。

例)今回のテーマ「激論(# ゚Д゚)芸術を定義することができるか?!」

ワイツ「芸術は定義不可能だ」

マンデルバウム「作品がもつ他のものとの関係から定義できるのでは?」

ダントーやディッキー「芸術制度(アートワールド)と関係づけつつ制度的定義を提唱」

それを受けて歴史的定義

歴史説と美的機能説とのハイブリッドである歴史的機能主義

複数の特徴を組み合わせてゆるやかかつ発展可能な定義をつくろうとする束説

・理論構築の作業が協働的に進めらる
・「あの大先生のおっしゃられていた(難解な)芸術論は、つまるところどのような主張だったのか」と皆が頭を悩ませることは少ない
・提案されていた既存の理論の問題を少しでも解決し、より良い理論を目指して議論を前進させることが重要
・「相手の主張をできるだけ好意的に解釈した上で、叩く

分析哲学において理想的な批判態度とは、批判すべき相手の論点を的確に理解し、その主張の背景にある意図や目的をふまえて相手の主張を(しばしば相手よりも一層明確に)描ききった上で、それでも逃れられない問題点を指摘する、そういう態度なのである。

相手の欠点をいちいちあげつらって、たんにこき下ろすだけの行為は批評とはいえない。

「主張の種類や、主張の及ぶ範囲に配慮しつつ議論を進める」というスキルを鍛えることは、コミュニケーションスキルを鍛える上で非常に有用だ。人の話をきちんと聞いて、相手の言わんとすることを理解し、どこまで同意できてどこに反論できるか、どうしたら話が前進していくかといったことを、相手と一緒に考えていくこと。また、自分の好みを成り立たせているのは何かを真摯に見つめ、しかも、自分とは好みが違うひとが存在することを常に念頭に置いて話を進めること。

小田部胤久「さながらワーク・イン・プログレスの様相を呈する」

準備中、進行中、工事中の意味。完成までのプロセスを作品とみなす手法を基本とする。未完性であること、そして現代美術における仮設の概念を基盤としている

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