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著者

荒木慎也(あらき しんや)

1977年名古屋生まれ。

東京藝術大学美術学部芸術学科卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。2013年に博士(学術)。

東京大学教養学部国際ジャーナリズム寄付講座特任助教を経て、現在は成城大学、多摩美術大学、武蔵大学非常勤講師。

専門は近現代美術史、美術教育学。
主著に『石膏デッサンの100年―石膏像から学ぶ美術教育史』(アートダイバー、2018年)。

書評

artscapeレビュー 星野太

・世代を問わず、日本で専門的な美術教育を受けた者は、ほぼ例外なくこの石膏デッサンを通過してきている。そんな当事者たちにとって、雑誌・カタログ・予備校関係者へのインタビューなどを通じてその功罪を丁寧に追跡した本書の内容は、さまざまな記憶と複雑な感情を惹起するにちがいない。

・まずは第1章「パジャント胸像とは何者なのか」に目を通してみてほしい。そこでは、いっけん何の変哲もないこの石膏像がじつは日本と韓国でしか流通していないこと、著者が本研究に着手するまで、この像は原型すら正確に知られていなかったこと、そしてこの像の名前はそもそも「パジャント」ではないこと(!)等々、驚きの事実が次々と明らかになる。

・後半で語られる東京藝術大学と美術受験予備校の「駆け引き」には驚きと苦笑を禁じえない読者も多いだろう。堅実な学術書でありながら、「非当事者」のそんな野次馬めいた読み方も可能にする、あらゆる読者層に向けられた著作である。

パジャント胸像

石膏デッサン1

石膏デッサン2

石膏デッサン3

(出版社による内容紹介)
美大受験生たちの血と汗と涙の結晶
「石膏デッサン」とは、何だったのか?
石膏像を巡る苦闘の歴史がわかる、石膏デッサン研究の決定版!!

美大受験をする者なら誰もが経験する石膏デッサン。とりわけ美術予備校において、その描画メソッドは時代とともに進化を遂げており、短期間の集中的な修練で見違えるほどの優れたデッサンを生み出すことができるようになっている。

・しかし、いざ美術大学に入ってみると石膏デッサンは不当な扱いとされているのも実情である。教授によっては、「石膏デッサンの技術は、創作活動には有害だ」とすら指導する。美大受験に必須であった「石膏デッサン」は、大学では一転不要なものとされ、学生はその狭間で立場を問われる。

・「石膏デッサンは、制作における基礎体力をつける筋トレである」
・「ものを見る力をつけるにはこれほどいい教材はない」
・「石膏デッサンは、アカデミズムの悪しき因習で、自由で創造的な創作活動を阻害するものだ」
・「技術はもはやアートには必要ない」

・本書の目的は、こうした膠着状態にある石膏デッサンへの言説を、その受容からいま一度振り返ることで、有効な議論へと発展させ、より構築的な美術教育史の理解を進めることである。

・前半の1章から3章で石膏像について論じ、後半の4章から6章で石膏デッサン教育について論じるという構成をとっている。そのなかで、これまで正体が不明とされてきた石膏像のオリジナル彫刻、日本における石膏像収集の歴史、近代と現代での石膏デッサンの違い、日本で石膏デッサン教育が普及した経緯、などの様々な事象を明らかにする。

・これらの議論を通じて、石膏像の100年を、絶えざる価値観と制度の変転の中で繰り返し新しい定義を与えられてきた流動的な歴史として再定義し、日本における西洋文化の受容が、単に「進んだ」西洋の価値観を日本に不完全に移植したものでなく、その曲がりくねった歴史で構築された、対話的で越境的な石膏デッサン言説の生成過程であることを示していく。

・不毛な「石膏デッサン是非論」の先にある新たなアートの創造のためにも、これまであまり日の当たらなかった「石膏像と石膏デッサン」について深く掘り下げることで、近代の美術教育が遺してくれた蓄積を反芻する試みである。教育者はもちろんのこと、美大受験を控えた受験生、さらには日々制作と向き合うアーティストに読んでもらいたい。

目次


問題の所在
西洋画教育の中の石膏像
これまでの研究
本書の射程

1章 パジャント胸像とは何者なのか
2体のベレニケ胸像
「バシャント」から「パジャント」へ

2章 美の規範としての石膏像
古代美の規範としての石膏像
帝国主義と石膏像陳列場
美術アカデミズム
モダニズムとデッサン

3章 工部美術学校と東京美術学校の石膏像収集
明治初期の石膏像導入
工部美術学校の石膏像
東京美術学校の『旧台帳』
海外から輸入した石膏像
石膏製作業者の登場
使われた石膏像・使われなかった石膏像
ボストン美術館の寄贈品
コレクションの不連続性

4章 芸術の本質としてのデッサン
工部美術学校の擦筆画教育
黒田清輝の石膏デッサン論
東洋の線と芸術の本質
石膏デッサンのモダニズム
石膏デッサンの規格化
教育の根幹としての石膏デッサン

5章 反・石膏デッサン言説
批判言説の源流
美術アカデミズム・リバイバル
教官と学生の対立
野見山曉治の入試改革
宮下実の石膏デッサン論

6章 美術予備校の石膏デッサン
美術予備校の登場
デッサンの神様・安井曾太郎
石膏デッサンの「デッサン」
白い石膏デッサン
ポスト石膏デッサン時代
現代美術の中の石膏デッサン
21世紀の石膏デッサン教育

問題の所在

フィティッシュの対象である愛憎感じる石膏像

カプセルトイ『石膏デッサン入門』

『石膏ボーイズ』

小沢剛『不完全 ー パラレルな美術史』

明治以来、石膏デッサンは美術教育の定番でした。過去の遺物ともいえる石膏像を通じて、日本における近代美術の出発点を再考しようと試みます。

BRUTUS/Chim↑Pom
受験に失敗したメンバーが「ブルータス胸像」を破壊するパフォーマンス

バンクシーの絵画「風船と少女」が落札直後に自己破壊

会田誠「BT」1992年

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会田誠「『美術手帖』という雑誌の存在に対して、あの頃で言えばバーバラ・クルーガー等のかっこいい最新情報が載っている一方で、石膏デッサンを使った美術予備校の広告が載っているというギャップがあって、そういうことを含めて、変な雑誌だなあと思ったのが制作の動機です。『BT』の文字と『ブルータス』の文字が一緒だと思ったしね。」

(著者の疑問)

p3
・受験生だった頃に必死になって描いた石膏像のルーツを、実は何も知らなかった。
・石膏像について、描き方しか学んでこなかった
・画家を諦めて芸術学科に進学しても、受験生時代に必死になって描いたはずの石膏像の歴史的な位置づけについて、何一つ学ぶ機会もなかった。
・なぜ美術予備校では当たり前のように石膏デッサンから勉強を始めたのだろうか。

本庶佑教授2018年ノーベル医学生理学賞「教科書に載ってることは嘘」

好奇心と「簡単に信じないこと」の重要性。教科書に書いてあること、人が言っていることを全て信じない。

21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(中央教育審議会 第一次答申)

ゆとりの中で生きる力を育む


・社会は、変化の激しい、先行き不透明な、厳しい時代において、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など豊かな人間性であり、そして、また、たくましく生きていくための健康や体力を育む

・これまでの知識を教え込むことに偏りがちであった教育から、子供たち一人一人の個性を尊重しつつ、[生きる力]をはぐくむことを重視した教育へと、その基調を転換させていくことが必要である。

石膏デッサンの事例

竹本博文作

アグリッパ

Plaster cast drawing

石膏像の種類

・ヨーロッパの美術アカデミーや石膏複製工房では、数千種類もの石膏像を収蔵し、販売している。
・日本の美術教育で使用される石膏像は、岡石膏製作所の一覧には、半身像、胸像、首像、マスクを含めて38種類が掲載されている。

石膏デッサン風景

サブトピック

サブトピック

サブトピック

1章 パジャント胸像とは何者なのか

パジャント胸像

ウフィツィ美術館『ベレニケ胸像』ギリシア大理石

ルーブル美術館『ベレニケ胸像』大理石

・フランスの複製工房でかたどられている。
・破損防止用の新聞紙の日付が1921年である。
・「ドレープを纏ったバジャント、またはイシスとしてのプトレマイオス朝の王妃の胸像?」

紀元前1世紀前半のエジプト王妃の肖像

古代ローマ神話に登場するバッカスの崇拝者の名称

2章 美の規範としての石膏像

石膏陳列場

p42-43

・ナポレオンによるルーブル複製工房の設立
・19世紀イギリスの大英博物館付属の膏複製工房
ベルリン王立美術館付属の石膏複製工房
・ブリュッセルの王立美術歴史博物館複製工房

p44-46

高等教育機関での石膏像の収集
・1824年ボン大学
・1836年キール大学
・1840年ライプチヒ大学
・1884年オックスフォード大学
・1849年ケンブリッジ大学
・1786年ペンシルバニア美術アカデミー(アメリカ)I
・1807年ボストン・アシニアム
・1876年ボストン美術館
・メトロポリタン美術館
・シカゴ美術館
・ニューヨーク市立大学シティカレッジ
・ヴァッサー・カレッジ
・コーネル大学
・ミズーリ大学

美術アカデミズム

p46-50読む

p47

・美術アカデミーは、ルネサンス以来の視覚芸術を職人技から自由学芸へと昇華させるために、中世から続いてきた職人組合(ギルド)から独立した組織として、より洗練された教育機関の性格を強める。(1648年王立絵画彫刻アカデミー)

・18世紀からポンペイの発掘、ヴァンケルマンらによる美学理論の発達などを通じて、古代ギリシャ・ローマへの関心が高まる。

・ダヴィッド、アングルの関心は、古代ギリシャ・ローマ美術の理想美、そしてそれを発展的に継承したルネサンス美術の崇高さを再現するものであり、たくましく均整のとれた体つきや、端正で彫の深い表情は、古代彫刻のそれを彷彿とさせた。

p49-50
・石膏像は素描手本と生身の人体の間にあるギャップを埋めるための橋渡し的な存在とみなされた。実際には「欠陥」のある生身のモデルの対して、新古典主義が奨励する古典的なプロポーションを適用し、理想的な姿に修正することが求められた。

・美術アカデミズムは、古典美への強固な信念とともに、ヨーロッパ各国の領土拡張政策をなぞるように、ラテンアメリカや北米、アジアにも拡大していった。

1781 サン・カルロス王立美術アカデミー(メキシコ)
1799 素描アカデミーの設立計画(アルゼンチン)
1800 公立素描学校(ブラジル)
1823 ダミアン・ドミンゴの素描学校(フィリピン)
1876 工部美術学校(日本)

・フランスの経済活動は、17世紀になっても依然として職業の大部分を支配する同業者組合(ギルド)によって独占されていた。

・パリでは組合に属することなく画家の職業を営むためには、国王あるいは王室付きになるか、親方の管轄の及ばない場所で活動するしかなかった。

・ギルドに属さない芸術家たちは国王に対してアカデミーの設立を働きかける。絵画彫刻アカデミーの創設が王や王国に栄光をもたらす。

・自分たちの活動を手工芸的技芸(art mecanique)ではなく自由学芸でることを証明する必要が生まれる。(絵画の優越性)

『ジュピターとテティス』

《ヴィーナスと三美神に武器を取り上げられるマルス》

artがartでなくなる時

美術アカデミーができるまで

・古代ギリシャ人は手仕事を生計とする人々を軽蔑し、奴隷以上の身分とは見なかった。価値を認められたのは、職人の技巧でありそれ故美術家は床屋、料理人、鍛冶屋の仲間と見なされていた。
・プラトンやアリストテレスでさえも視覚芸術を音楽や詩より低い地位においた。(絵画とは模倣の模倣だ

・13世紀以降、西ヨーロッパ都市の労働人口が次第にギルドとして組織化されると、美術家は容易く個性を主張できなくなった
・14世紀から15世紀においてさえギルドは子弟の教育から裁判権行使に至るまで全員を拘束するほどだった。

・このような強い圧力の中最初に多くの近代化特徴を示す個人主義的美術家が生まれたのは、ヨーロッパで最も進んだ都市国家・フィレンツェであった。
・そこは高度に発達した個人主義を具え自由と進取の気性に富み、進歩的な競争精神を持つ振興商人階級の美術庇護者はそのような美術家達に価値を見いだしていった。
・(その当時のイギリスでは、以前大方の画家は下層職人の地位に置かれたままであり「似顔絵描き」として馬車塗師や家屋塗師と並ぶ地位で画家・染工組合に加入させられていたままだった)

15世紀に花開いたイタリアのルネサンスに影響を受けたフランスの画家や彫刻たち

フランスには絵画、彫刻を専門にしていた職人たちがギルドを組織していた。芸術家たちと職人たちの利権争い。芸術家たちは自らの組織をつくることを目指すようになる。

15世紀から始まる宗教改革の嵐によって、キリスト教の権威が低下し、世俗権力が相対的に強まる。しかし、国王が一人勝ちしていたわけではなく、職人組合(ギルド)を中心とした自治都市、高等法院、領主貴族層が群雄割拠していた。

その中で権力の拡大を狙っていた過程で、国王自身を権威付けることを建築、詩、庭園、絵画、彫刻の芸術全般に求めるようになる。(権力者の旗振り)

芸術家側にとっても国王に認めてもられば、芸術家自身に箔をつけることができる。ギルドとの差別化を意味する。国王と芸術家のウィンウィンの関係。

国王=絶対王政の実現、芸術家=絵画彫刻アカデミーの実現

ルイ14世

絶対王政を目指すルイ14世

・王に反発する高等法院(ギルド)、領主貴族層の存在

・芸術は王権の支持によって文化的名声を得ようとしていた。だが、その王権もまた、権威をいやが上にも高め、威光を増すために、芸術の美によって荘厳化される必要だった。(ギブアンドテイクの関係)

ベルサイユ宮殿

建築家、彫刻か、画家、庭園設計士といったような造形に関わる、今日的なに言えば芸術家の能力が遺憾なく発揮されてつくられた建造物

ルイ14世時代の文化を象徴する

・初期には大商人のギルドしかなかったが,13~14世紀には手工業者や小商人も新しいギルドを結成して,それまで大商人が独占してきた市政への参加を実現した場合も少くない (フランドル,西部ドイツ,北イタリアなど) 。

・中世末期以来,農村工業の展開や都市人口の増加に伴い,ギルドは閉鎖性を強め,保守的な特権団体として,自由な商品生産の発達を阻害する原因となった。

・中世ヨーロッパに興った大学も,その性格においてギルドの一種である。自由主義経済思想の普及に伴い,営業の自由の原理に基づいて,18~19世紀には廃止されていく。

パルルマンとも。革命以前のフランスの最高司法機関。初期カペー朝の宮廷会議が13―14世紀ころ恒常化するようになってから高等法院として発達。国王の勅令は高等法院に登録されなければ発効せず,政治的にも大きな力をもつに至った。絶対王政期には法服貴族の拠点としてしばしば王権に反抗し,フランス革命のきっかけにもなった。革命前夜には全国で17ヵ所(四つの最高評定院Cour souveraineを含む)にあった。

王立絵画彫刻アカデミーは、フランス革命後の1793年、ほかの諸アカデミーとともにいったん廃止されたが、1816年、アカデミー・デ・ボザール (Académie des Beaux-Arts) として復興する。1819年に、絵画・彫刻・建築の部門が統合され、国立の美術学校(エコール・デ・ボザール)となった。

絵画や彫刻がアート(技)ではなくファインアートであることを証明する必要に迫られる。その当時では、自由学芸であることでそれを証明することがきる。

自由学芸(リベラスアーツ)

・大学は中世ヨーロッパの修道院のリベラルアーツから誕生した。

・ヨーロッパでは古代ギリシア・ローマ社会から中世のキリスト教社会を経て均整に至るまで、自由人の教育のために「リベラルアーツ」とよ呼ばれる「自由七科」が教えられる。(自由民にふさわしい学問)

・「三科(言葉の学)」とよばれる「文法学」「修辞学」「論理学」、「四科(数学的諸学科の自由な学習)」と呼ばれる「代数学」「幾何学」「天文学」「音楽」である。

・人として言葉(自分を知る手段)数学(世界を知る手段)を身に付ける。

美術における数学的要素
・プロポーション
・遠近法
・解剖学
・黄金比

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プロポーションと理想の美

・観念的な考え方をする古代ギリシアでは、理想的な人体比率の理論が確立されており、「カノンの法則」と呼ばれていました。

・紀元前5世紀から4世紀初頭のギリシア人の彫刻家・建築家のポリュクレイトスは「理想的な身体は、数学的に定義された身体のパーツが、正しいプロポーションと関係性の上に構成されていなくてはならない」と考る。

・ローマ時代の建築家マルクス・ウィトルウィウス・ポッリオ(紀元前80〜15年)は、世界最古の建築理論書「建築論」の中で「建築は人体と同様に調和したものであるべきである」と述べ、人体の理想的比率を建築に応用しようとしました。

・古代ギリシア・ローマの人々は、神々や宇宙と繋がっている人体は理想的な比率を持っていると考え、これを解き明かそうと思っていたのです。

・古代の彫刻の持っている美しいプロポーションを学んで、実際にいる人間を美しくしていくこと(デッサンの重視)
・色彩は、人間の感覚にも続いて変わるもの、形而下的なもの。(諸行無常)

芸術制作は知的活動である。

ルネサンスになるとウィトルウィウスの理論が再注目され、この比率に基づいて複数の「ウィトルウィウス人体図」が制作されました。

レオナルド・ダ・ヴィンチ

1485〜1490年に描かれたこの素描では、中心の男性の手足が円と正方形に接しています。一説によれば、円は精神世界や宇宙を、正方形は物質界や大地を象徴していると言われています。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、人体図を制作する以前に、比率に関するルカ・パチョーリ(Luca Pacioli 1445〜1517年)の著書「de divina proportione」の挿絵を60枚描いています。Divinaとは「神の」「神聖な」などの意味であり、divina proportioneは今でいう「黄金比」を指します。

現代の黄金比?

《L.H.O.O.Q》

バロック(歪んだ真珠)

一六世紀末から一八世紀中頃にかけて、ヨーロッパ全土に盛行した芸術様式。ルネサンス様式の均整と調和に対する破格であり、感覚的効果をねらう動的な表現を特徴とする。本来、劇的な空間表現、軸線の強調、豊かな装飾などを特色とする建築についていったが、激しい情緒表現や流動感をもった同時代の美術・文学・音楽などの傾向、さらには、ひろく時代概念をさす。

カラバッジョ

ルーベンス

レンブラント

現代美術は知術であるといわれるけれども、17世紀から美術は知術であるといえる。

モダニズムとデッサン

p50
19世紀にロマン主義が登場して個人的な表現を絵画に積極的に取り入れる試みが始まる→写実主義、印象主義に継承される

・ロダンは主観的な対象の把握や情感を積極的に表現したデッサンを発表し、個人のより主観的な表現手段としてのデッサンを確立していった。

・19世紀後半の美術教育学による「子供」や「未開文化」の発見。教育とはうわべの知識を剥ぎ取り、網膜のタブラ・サラ=白紙状態を取り戻す行為であり、それによって生来備わっている内なる創造性を表現することが、芸術の目的とされた。(アウトサイダーアート)

ロダンのデッサン

ロダンのデッサン

p52

個人の内面や個性が芸術表現の中心を占め、即興的で主観的なデッサンが認められるようになると、古代ギリシャ・ローマ時代の芸術は、もはや唯一無二の美の規範とは見なされなくなる。

・その結果、美術館や美術アカデミーを支えてきた石膏像も、保守的で時代遅れな存在として、批判に晒されることになった。

・多くの石膏像コレクションが撤廃され、展示から外されたり、あるいは廃棄されたりするようになる。

p55

その時、日本は20世紀前半にはヨーロッパで美的価値の大変革とともに石膏像が旧体制の象徴として批判されていた中で、日本は美術アカデミズムを堅持して石膏像を使用し続けたのか、それともヨーロッパに倣って同じように石膏像を否定したのであろうか。

p38-42読む

ヨーロッパにおける石膏像の歴史的・社会的文脈

P38

・古代ギリシャ・ローマ美術、さらに古代の文芸復興運動としてのルネサンス美術を自らのアイデンティティとして再認識し、共通の美の規範として認め、さらには諸外国に広めていこうとする動きがあった。

・古代ギリシャ・ローマの彫刻や建築がフランスやドイツの石膏複製工房で複製され、各国の石膏陳列場に展示されて一般観衆の教育に供し、美術館や大学、その他の研究施設に販売されていった。

・18世紀のフランスのエコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)を手本としてヨーロッパ各国で設立された美術アカデミーでは、ヨーロッパ社会が自らのルーツとした古代ギリシャ・ローマ彫刻を理想としてデッサンの修業を課していた。

・古代ギリシャ・ローマ彫刻を石膏で複製することで、統一的な規範を形成

ファインアート(fine art)

fineの意味
・素晴らしい、すてきな、洗練された、立派な
・品質の優れた、上質の、最高級の、絶品の

フランス語でボザール(Beaux-Arts)

英語の art (アート)はラテン語の ars (アルス)に対応し、日本語では「芸術」と訳される。ラテン語の ars はギリシア語のテクネー に相当し、本来は「芸術」というより、自然に対置される人間の「技」「技術」「医術」「学問」を意味する言葉であった。

p40
1734年にカピトリーノ美術館で古代彫刻の閲覧が一般に許可されるようになるまでは、古代彫刻を閲覧するためには特別な許可が必要だったため、オリジナルの古代彫刻に触れる機会が少なかった芸術家たちにとって、石膏陳列場は、たとえ複製であっても古代彫刻に触れることができる貴重な場所であった。

ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン『ギリシア美術模倣論』(1755)
p40

・古代ギリシャ人の生活がいかに節制鍛錬によって律せられていたかを説き、その理想的な肉体美が古代ギリシャ美術に結実しており、怠惰な身体を持つ現代人は古代美術を模倣することによって、芸術の究極の目的である、「心を楽しませると同時に人を訓える」ことが可能になると主張した。

・ヴィンケルマンが初めて「ラオコーン群像」で出会ったのは、ドレスデンの石膏像コレクションであり、『ギリシア美術模倣論』を執筆した時点ではイタリアを訪れたことがなく、その記述も石膏像の観察によるものであった。

p40

ゲーテ『詩と真実』
・古代彫刻を讃える文章を発表したが、それも石膏像をみた印象に基づいていた。
・古代彫刻を手近に鑑賞することを可能にする石膏像を高く評する

小林秀雄

・『複製は、充分に、ゴッホという人間を語っている様に見えているではないか』(しかも、本物を見たときに複製の方の感動が大きかったと語る)

・『詰まらぬ本物に高い金を出したり、見事な写しを素直に愛したがらない』(複製であったとしてもすばらしい絵画は、それを通して感動をあたえる)

・『私がこの会場で、一番美しいと思ひ、一番丹念に見た絵は、休憩室にかかっていたドガの「踊り子」の上出来の複製であった。現代の複製という進歩してやまない合法的贋作技術は、古いほんもの・にせもの問題をごく専門的問題と化すと思ひ、この次には一流複製展をかんがえてほしいと思った』

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ラオコーン群像

「主張の種類や、主張の及ぶ範囲に配慮しつつ議論を進める」

人の話をきちんと聞いて、相手の言わんとすることを理解し、どこまで同意できてどこに反論できるか、どうしたら話が前進していくかといったことを、相手と一緒に考えていくこと。また、自分の好みを成り立たせているのは何かを真摯に見つめ、しかも、自分とは好みが違うひとが存在することを常に念頭に置いて話を進めること。

3章 工部美術学校と東京美術学校の石膏像収集

p60
江戸時代までの美術教育は、狩野派の粉本教育に代表されるように、師匠の画手本(えでほん)を模写することで行われていた。

・粉本(ふんぽん)とは、絵の下書きのことである。下書きは胡粉で書いたのでこの名になった。

・狩野派では同じ構図、形式、色彩の絵をどこの誰が注文しても、同一の質で制作されなければならない要求から、入門者には徹底的に手本を模写することのみを専念させた。つまり誰が描いても同じタッチ、同じ形式のものが描けなければならなかった。

・狩野派はビジネス集団、いまでいう大企業だから絵師の個性は必要ない。「会社」の方針に従って忠実に仕事をする絵師のみが良い絵師なのだ。

サブトピック

サブトピック

・狩野派は室町時代中期(15世紀)の狩野正信・元信親子が始祖である。狩野派はその時々の権力者、各地実力者、大寺院、豪商と結びつき、宮中、城郭、寺院、町衆邸宅などの装飾絵画を請け負ってきた。血族集団を中心とした家督制で、約400年間も時の中央画壇に君臨した巨大絵画制作集団である

・江戸時代に町人文化が花開くが、この中で狩野派に入門したが、この粉本主義に反発して破門されたり、自ら去った絵師も大勢いた。しかしそんな絵師から優秀な浮世絵師や、別の流派へと発展もしていった。北斎や広重、伊藤若冲や円山応挙などみんな狩野派美術教育の出身者である。

狩野永徳筆 唐獅子図 宮内庁三の丸尚蔵館

伝狩野永徳筆 檜図 東京国立博物館 国宝

p61
・石膏像導入の決定的な契機になったのは、1876年の工部美術学校設立であった。

・明治政府は、殖産興業発展の目的から、工部美術学校を工業デザインの学校として画策していたが、日本に招聘されたイタリア人教師たちはイタリアの薦めで純粋美術の画家や彫刻家が採用されたこともあって、工部美術学校は純粋美術の学校として開校し、これによって日本の美術教育が西洋の美術アカデミズムに追随する基礎がつくられた。

p62
彫刻学科一期生の菊池寿太郎「当時は未だ社会一般に彫刻家の存在すら認めていなかったばかりではなく、そんな白い人形や首を使つて何にする?などと云った風で、冷淡むしろ笑止の沙汰であった」

日本で石膏像を触れることができる機会は限られ、社会的な認知を得るには至らなかった。

p65
工部美術学校時代から使用されていたと考えられる石膏像の総数は332点である。

p67
・工部美術学校の閉鎖後、1885年の文部省の図画調査会において、あたらに官立の美術学校を設立することが提案され、1887年に日本画、彫刻、美術工芸の3科からなる「東京美術学校」が設立せれる。

・黒田、久米の帰国をきっかけに、1896年に西洋画科が設置されることで日本における西洋画教育の中心的役割を果たすことになった。

p67
『旧台帳』と呼ばれる美術学校時代の備品台帳をには、記載されている石膏像の総数が7418体になる。

石膏像の需要が高まると、石膏制作業者が登場する。

p75
・菊池石膏模型製作所
・宮島一の石膏工房

p80
ボストン美術館の石膏像の寄贈

p81
ボストン美術館が石膏像の取引先を探していることを美術史家の矢代幸雄が知り、日本に送ることを思い立つ。

・1930年前後のボストン美術館のみならず米国各地の美術館や大学で石膏像の展示会場から撤去や廃棄が進行していた。

4章 芸術の本質としてのデッサン

p102-p111読む

p102・石膏デッサンの発祥の地であるヨーロッパでは、美術アカデミーの衰退と、独立した芸術表現としてのデッサンの登場していた。

p102・ロダン、セザンヌなどロマン主義や印象主義、ポスト印象主義の芸術家たちの作品が存在し、特に彼らの描くデッサンに、新古典主義の教条とは異なる同時代の審美的価値が見出されるようになった

p103・ロダンを通じて20世紀初頭の日本の芸術家たちに芸術家としてのデッサンという思想が受け継がれたことは、西洋のデッサンと日本の在来美術に共通する表現を見出す可能性を示していた。

p103・デッサンとは客観的な外形の描写ではなく「主観的なもの」であり、「自己の美術観に連れて動発する情緒を、絵画なる形式を価値て発表する」ためのもの

p103・デッサンを通じて表現されるものは「画家の生命其の物」であり、「画家の個性」である

p104・デッサン概念の抽象化は、本来はヨーロッパの美術アカデミーという強固な制度に培われた伝統である石膏デッサンを、日本の伝統と結びつける役割を果たした。

p105・西洋のデッサンと日本の従来美術を結びつける接点が、「線」の要素であった。20世紀初頭の日本の画家たちも、まさに西洋のデッサンに現れた「線」に注目する事で、洋の東西を超えた美術の本質を見出していた。

p106・デッサン本質主義に特徴的な、直感性や原始性は、学校教育として行われていたような石膏デッサンとは対極の考え方であるようにみせる。しかし奇妙なことに、多くの日本の論者は、石膏デッサンと近代的なデッサン観を両立するものと見なすようになる

正宗 得三郎(まさむね とくさぶろう
小林 萬吾(こばやし まんご
小林徳三郎 こばやし とくさぶろう
斎藤 与里(さいとう より

p107・石膏デッサンは、モダニズム美術における「芸術としてのデッサン」という考え方と融合し、アカデミズムとモダニズムの混ざった、奇妙な混淆文化へと発展していく。→丸山政男

丸山眞男『日本の思想』から

・(日本においては)むしろ過去は自覚的に対象化されて現在の中に「止揚」されていないからこそ、それはいわば背後から現在の中にすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。一定の時間的順序で入ってきたいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけで、いわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。

・新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向き合わずに傍らに押しやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。

・加藤周一は、日本文化を本質的に雑種文化と規定し、これを国粋的にあるいは西欧的に純粋化しようという過去の試みがいずれも失敗したことを説いて、むしろ雑種性から積極的な意味をひきだすよう提言されている。(中略)が、こと思想に関しては若干の補いを要するようである。

・(中略)私がこの文でしばしば精神的雑居という表現を用いたように、問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同時存在している点にある。多様な思想が内面的に交わるならば、そこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることも期待できるが、ただ、いちゃついたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返されるだけだろう。

p108・日本においては美術アカデミズムの理解が不十分であったがゆえに、本来、相いれない概念であるはずのアカデミズムとモダニズムが、就学上の第一段階(アカデミックな基礎)と第二段階(モダンな個性的な表現)として同時に受け入れられ、同居状態をつくりだすことになった。

p109日本の芸術家は、就学の初期段階で石膏デッサンや人物を徹底的に訓練することで、西洋美術の段階的発展を個人で追体験することが必要。

p110アカデミズムの根底にあるものとしての美術アカデミズムの重要性を訴えていた。

p111・「デッサン」という言葉は、学校教育においても、あたかも芸術家の価値そのものを決定づける基準であるかのように、芸術家の肩に重くのしかかるほどに重要な位置づけを与えられていた。(戦後日本の美術教育における「個性化教育」の源流につながる)

p118・石膏デッサンが日本に定着しておよそ半世紀が経過し、新古典主義という出発点を忘却された石膏デッサンは、「芸術とてのデッサン」という別の価値を与えられることで、新たな石膏デッサン原理主義を構築する動きを見せた。

p118・結果として、石膏デッサンに教育の基礎という価値を与えようとした美術言説は、戦後の美術教育の変転の中で、かえってその理論的基礎の脆弱性を指摘されることになる。

p116精神論としての石膏デッサン

・石膏デッサン教育を美化し、精神論に置き換えるような発言を繰り返していた。
・石膏デッサンの厳しい訓練によって特別な観察力が拓けたという体験
・「見失いがちな自分を支えてくれる根幹として、これほど強く私のパイロットとなってくれるものはない」
・石膏デッサンは単なる訓練ではなく、全身全霊をかけて克服すべきおおきな課題であるととものに、画家としての活動の根幹でもあった。(石膏デッサンの神話化

イニシエーション(通貨儀礼)としての石膏デッサン

大人の仲間入りをするためには、試練と呼ぶにふさわしい訓練期間が設けられ、こうした試練をクリアすることによって新しく仲間入りすることが許された。人生のなかで通過しなければならない試練を人類学では「通過儀礼」とよんでおり、世界中にそうした儀礼が数多く残されている。通過儀礼は特定の場所に一時的な施設を作り、日常の空間から隔離された状態で行うことが必要な条件となる。そしてそれに参加する者は、儀式のなかでこれまでの在り方を死という形で打ち消し、異なった状態を経て新しい役割を帯びた者として誕生するという劇的形式を取ることが多い。こうした人生儀礼を行うことによって、本人はもとよりまわりの人々にも彼の共同体の中での新しい役割を担い、また新しい秩序の中に順応させる力をもつことが出来た。このような、かっての村の共同体のなかで行われた人生儀礼は、明治以後は学校教育が引き受けるようになる。

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世界の通過儀礼

「オーキーパ」のピアッシングの苦行

「バレットアントグローブ」毒アリに手を噛ませる

割礼

刺青

p117

坂本一道「石膏デッサン、それは物事を一途に考え、すべてが可能性という形で存在した時の出来事として忘れ去られているかに見える。しかし次々と押し寄せてくる渦潮のうちにあって、見失いがちな自分を支えてくれる根幹として、これほど強く私のパイロットとなってくれるのもはない。技術的な進歩は描写を容易にいし、いつのまにか私を容易さの中に妥協させ、目標を失った私の熱意も空転していた。

その頃、私のデッサンを見て下さった先生から石膏の重さが描けていないといわれた時、私は脳天から真二つに打ちすえられた思いであった。視覚的には見えないものの表現、第一歩から出直さなければならない。私の容易さが腹立たしかった。私は何の手掛かりもない目標にむかって、行き詰まり、途方に暮れる状態を繰り返しながら、しかし何かしら大変な道の扉が開かれそうな予感を持ってい暗中模索した。あえぎながら山を登り、突然に視界が開けたときの様に、それはほんとうに偶然と言えるようなひとこまに突然に訪れた。全く夢想だにしなかった世界をみたときの理屈抜きの感動の中で、在るということの厳しい美しさを、自分の目で感じている実感が私自身も存在させるということを識ってとき、私ははっきりと自分の目標をつかんだように思えた。

歴史意識の古層

日本の政治学者、思想史家の一人である丸山眞男(まるやま まさお)は、日本人の思想の根底には「古層」とも言える、思考パターンがあると考えていました。丸山はこの「古層」を、歴史を通じて不変なものではなく、変容や修正を繰り返すものと捉えており、「普遍的なもの」という観念(時代や状況に関わらず主体的に判断し決断するための基準となるような考え方)が日本人の内に根付くことを妨げている原因でもあると考えました。1972年に発表された論文「歴史意識の「古層」」では、この日本人特有の思考パターンについて分析を行っています。

分析の結果、この「古層」とは「なる」「つぎ」「いきほひ」という語に特徴づけられます。これらは簡潔にまとめると「なりゆきに身をゆだねる主体性のなさ」ということです(=「つぎつぎになりゆくいきほひ」)。

「端的に言えば、この国の歴史のなかから完結的イデオロギーとして「日本的なもの」をとり出そうとすると必ず失敗する、しかし、外来思想の「修正」のパターンを見たらどうか。・・・その変容のパターンはおどろくほどある共通した特徴がみられるという一点に尽きる。」

外来思想「日本化された」外来思想土着思想想(それは理論的でも抽象的でも表面的には「体系的」でもない)

「デザインとデッサン」高階秀爾

デザイン(英)とデッサン(仏)という言葉のもとをたどればイタリア語の「ディゼーニョ」両者の間にはきっても切れない関係がある。

・ルネッサンスの時代にそれ迄別々なものと考えられてきた建築、彫刻、絵画が、「ディゼーニョ」として共通の理念としてまとめられた。

・この場合ディゼーニョとは構図を生み出す構想力であると同時に、それを実現する技術であった。すなわち、デザインでもありデッサンでもあったのだ。

・デッサンに支えられていなければ、デザインは成立されないし、デザイン無しに本当のデッサンは生まれてこない。新の芸術家は手を動かしながら考え、頭を使いながら描く。それがディゼーニョである。

芸術の本質は「妙想(イデア)」(理念の表現)にあり
(フェノロサ講演記録『美術真説』(1882年))

・彼は絵画創作上の大きな要素として、明暗(濃淡)色彩の3つをあげ、それに絵の主題を加えた4つがそれぞれ調和をとり、これらの条件がそろってはじめて「妙想」ある絵画が成立するという。

・油絵ははるかに写生的で実物を模写した写真のようなものであり、写生を重視して「妙想」を失っている。

・日本画は実物を写生的に描かず、線で美しさを強調して、妙想を表す長所がある。

色彩表現の豊かさに頼っているために、油絵は妙想を忘れる傾向がある

フェノロサの考察によると、日本画の欠点とされた陰翳の欠如や線描きを主体とする描写法も、「妙想」を重視する観点からすれば、逆に長所として生かせることになる。
フェノロサはたんに自分の好みだけで日本画に傾倒していたのではなく、西洋画との違いを論理的に分析したうえで、日本の美術を評価したことが以上の記述からわかる。たんなるジャポニスムではない。

フェノロサとは?

1878年に来日,1886年まで東京帝国大学で哲学,論理学,経済学を講じた。やがて日本美術に興味をもち,日本古美術の保存,研究を説き,伝統的な日本画の復興を力説,1884年鑑画会を興し狩野芳崖,橋本雅邦らを育成し,また浮世絵版画の真価を世に高めた。岡倉天心と協力し東京美術学校設立に努め,1889年開校後は審美学,美術史を講義,また帝室博物館理事を務めた。

正宗 得三郎

斎藤 与里

小林 萬吾

小林徳三郎

5章 反・石膏デッサン言説

p124
・フランスの抽象絵画運動であるアンフォルメルや、ニューヨークで開花した抽象表現主義は、日本でも流行し、1960年代には東京芸術大学の卒業制作展がアンフォルメル風の絵画で埋め尽くされた。

・1949年に読売案アンデパンダン展で若手作家たちによる過激な出品作品が問題視されるようになる。

・美術教育においても、ローウェンフェルド流の自然発生的な創造性理論が流行し、美術は訓練によって獲得される再現描写の技術ではなく、人が生まれ持った個性を自由に発現する行為であると見なされるようになった。

アンフォルメル

第二次世界大戦後、フランスを中心としたヨーロッパで興った非定形(informel)を志向した前衛芸術運動。アンフォルメルを考察する上で重要なのは、中心人物のミシェル・タピエが批評家/キュレーターであったと同時に、コレクターであったという点にある。大戦によって人間が「非定形」なまでに破壊された状態を表現したフォートリエやデュビュッフェから、かつてのフランスのシュルレアリスムや同時代のアメリカの抽象表現主義、日本の具体美術協会に至るまで、混沌とした世界観をひとつに紡ぎ上げた

p124
・東京芸術大学における教育は、東京美術学校の指導方法を継承し、次々と登場する新しい美術の潮流に追随する様子はなく、従来通りの石膏デッサン教育を堅持した。

・これに対し芸術家や芸術評論家は、石膏デッサン教育の教条主義や後進性を指摘し、芸術にとって必要なのは個人の個性や創造性であると主張した。

批判の声
p131「どの教室にもデッサンの神様が一人二人いて、その手つきは何年も鍛え上げられた職人を思わせる。私は何よりもまず、発想や方法が型に堕するのを恐れた。そして、絵画にもっとも重要と思われる内部のイメージの問題が素通りされているのも不満であった。」


p134「彼らは浪人中、二年でも三年でもだた受験のためにだけ石膏デッサンを勉強する。石膏デッサンが、創作にとって大切か否かの問題ではない。一般大学の受験性が、問題集を機械的に反復するように美術浪人も石膏デッサンを反復して描くのだ。学校に入る前に描写技術だけは一人前になる。芸大にはそういった秀才が集まってくる。」

p135「とにかく、なんらかの方法で合格者を決めなければならない。そこで石膏デッサンをやるのだけれど、それがいいのか悪いのか非常に難しい問題だとおもうのです。入学前に妙なデッサンの方法を教わったために、きわめてアウトライン的にしか対象をとらえることができないで終わってしまう。」

p135
1960年代以降の油画専攻の人事をみると、山口薫が1968年、小磯良平が71年、久保守が72年、寺田春弌(しゅんいち)が78年に相次いで辞任し、代わりに野見山暁治(ぎょうじ)が68年に助教授に就任し、そして75年には榎倉浩二が非常勤講師となった。これにより、具象絵画の世代が引退し、より抽象的でコンセプチュアルな作風の教官が新しく加わった。この教官の世代交代と、1969年の大学紛争が、油画専攻の入学試験における石膏デッサンの排除に結びついた。

野見山暁治

山口薫

寺田春弌

久保守

小磯良平

榎倉浩二

p137
石膏デッサンに疑問を感じていた野見山暁治は、他の教官に対して入学試験における石膏デッサンの廃止を訴えた。

・1974年に野見山は油画専攻の入試委員に選出され、自らが出題の決定権を得たことを機に、入試試験の改革を行った。

一次試験に油絵、二次試験にデッサンとし、しかも想像の風景を描かせるという大胆は出題を行った。

野見山改革の失敗

「この数年間ぼくがやった入試の方法を、どうか踏襲しないで頂きたい」

「三年目あたりから、予備校が三日間で油絵を描かす訓練をした。そして、すごい乾燥剤を使って、すぐ乾いて描ける。このようにやればよいという方法が三年たったらきちんと樹立したの。これならまだ石膏デッサンをやっているほうが、あと油絵は自分の発想で自由にやれるでしょう。それのほうが罪がまだ浅いなと思った。」

失敗の原因
・20世紀の石膏デッサン教育は、美術予備校の主導の影響で著しく変異しており、戦うべき背後にいる肥大化した美術予備校産業であった。野見山の改革失敗は、日本の美術教育における美術予備校の影響力の強さを示した形となった。

しかし!

p139
油画専攻の入学試験は石膏デッサンに回帰するところか、一層多様化を進めていった。

・1980年代、石膏デッサンに始まり人体油彩に至るカリキュラムは徐々に撤廃されていった。

石膏デッサンのその後

p140
・石膏デッサン教育の主体は大学から予備校へと移行
・直接的な変革の波が訪れなかった美術予備校では、1980年代以降も継続
予備校では石膏デッサンを教え、大学で現代美術を教えるという、二種類の組織をまたいだ形で再び成立することになる。(アカデミズムとモダニズムの二重構造)

サブトピック

サブトピック

サブトピック

サブトピック

6章 美術予備校の石膏デッサン

番外 受験生の描く絵は芸術か

日本の美術教育制度における受験産業について

・藝大と予備校は別個の機関だが、両者の間では常に人が移動し、様々な形でネットワークを形成している
「藝大」に勤務する教員の多くは、始めは「受験生」として「予備校」に入り、「藝大」の学生になり、「予備校」で講師を務めた後に再び「藝大」の教員となる。
・予備校講師職が若手美術家に生活費・製作費を稼ぐ場を提供していたという点は美術予備校の歴史的意義として注目されてよい

中村政人『美術と教育1999(原久子)』

・予備校などで大学ごとに攻略法を教えられている
・自分の目で観て描いているのではなく、教えられたことを描いている
覚えてきた傾向と対策で描けるというのが合否の判断材料になる

「絵作り」

・藝大に合格するためには、限られた試験時間でどれだけ作品のクオリティを上げられるかが勝負の分かれ目となる。試験会場で課題を与えられてから構想を練っているのでは間に合わない。そこで均質化する傾向にある受験生の絵をばらけさ、予め幾つもの作画パターンを用意して、あらゆる出題に対応できるように準備する

「絵作り」は予備校の講師の積極的な干渉の下に行われており、他の人を模写させる・技法を教え込む・新しい素材を使用させるなどの指導法を組み合わせることで、オリジナリティは教育によって獲得されている。

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「何が何でも芸大!」

芸大の権威は一体何によって支えられているのか。

芸大が受験生を集める急進的な役割を果たさないと予備校は経営が成り立たない。その結果、予備校は芸大を裸の王様に仕立て上げることで生き残ろうとした。

・予備校は美術手帖に「合格速報」「誌上ギャラリー」などによって藝大合格者の名前やその作品をイコンとして祭り上げる

・予備校は芸大と対立構造にあるように見えながら、実際には表裏一体の関係(共犯関係)にあり、受験産業は学生を効率的にあ集め、日本という場において美術家が生計をたてるための精巧な歯車である。

・「藝大の権威が予備校の経営を支え、予備校の経営が藝大の権威を支える」という自閉的な相互作用が成立する

五章読む
絵画の臨界点

中西夏之「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」

「読売アンデパンダン」展

・1949年、読売新聞社主催によって発足した、フランスのサロン・デ・アンデパンダンに倣った無審査、無償の自由出品形式の年次展覧会。
・作家たちにとって自由な発表が可能な貴重な舞台となった。とりわけアンフォルメルの影響が発表作品の急進性が加速していった。
・既成の美術概念を大きくはみ出すその無秩序状態
・64年の第16回展直前に主催者によって突如中止が通達された。

自由な表現といっても、美術展という制度によってその表現は守られている。そのことを忘れてただ、個人の自由な表現だけを追い求めて制度そのものを否定しても空中分解することは避けられない。

アカデミズムとモダニズムの二重構造の日本的呪縛

サブトピック

サブトピック

サブトピック

サブトピック

サブトピック

美大は美術家の副業

サブトピック

大学で芸術家を育てる?

1時間~

美術教育不要論

24分~、1時間48分~小沢剛

何のために美術教育が始まったのか?

日本の学校教育は、明治 5(1872)年 8 月に学制が発布によって始まる。明治時代の初期は、西洋の先進国の文化や科学技術を取り入れること、すなわち近代化がわが国の教育の目標であった。

明治24(1891)年に出された小学校教則大網には、「図画ハ眼及手ヲ練習シテ通常ノ形体ヲ看取シテ正シク之ヲ画クノ能ヲ養ヒ兼ネテ意匠ヲ練リ形体ノ美ヲ弁知セシムルヲ以テ要旨トス」とあり、ものの形を描写する技能を養うことが図画教育の目標であった。

日本における美術とは?

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